2026-07-13

連載「女性天皇をたどる番外編

女帝の時代は、なぜ終わったのか

女帝の時代は、なぜ終わったのか ―― 孝謙・称徳天皇と、揺れた皇位

古代には、女性天皇の即位は、決して珍しいことではありませんでした。けれど、ある時代を境に、その「女帝の時代」は、長いあいだ途絶えます。

その最後の局面に立ったのが、孝謙(称徳)天皇でした。そして、その時代の中心で語られてきたのが、僧・道鏡(どうきょう)です。

道鏡をめぐる出来事は、しばしば「日本史上、最大のスキャンダル」として語られます。けれど、本当に、そうだったのでしょうか。今回は、後世の俗説やドラマ的な脚色をいったん脇に置いて、できるだけ一次史料――『続日本紀(しょくにほんぎ)』に近いところから見直してみます。

そしてこの記事の、本当の問いはこうです。これまで見てきた元正天皇から続く――なぜ、女帝の時代は終わったのか。その手がかりも、ここにあるように思うのです。


孝謙天皇とは、どなたか

事件の中心にいたのは、孝謙天皇(こうけんてんのう)です。

  • 名を、阿倍内親王(あべのひめみこ)といいます。
  • 父は、東大寺の大仏で知られる聖武天皇(しょうむてんのう)
  • 母は、光明皇后(こうみょうこうごう)

第46代の天皇です。元正天皇から見れば、その血筋は、聖武天皇を経て、この孝謙天皇へと受け継がれました。

実は、孝謙天皇には、歴史上ただ一人という記録があります。女性でありながら、皇太子に立てられたのです。あとにも先にも、女性の皇太子は、この方だけです。

聖武天皇から称徳天皇までの流れ


一度、退位する

749年、阿倍内親王は即位し、孝謙天皇となります。

そして758年、孝謙天皇は、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)へ譲位しました。淳仁天皇は、天武天皇の孫にあたる方です。孝謙天皇は、ここで上皇となりました。

これまで見てきたとおり、当時、譲位そのものは、めずらしいことではありません。問題は、このあとに起こります。


病と、道鏡

上皇となった孝謙は、やがて病に伏せります。

そのときに看病にあたったのが、弓削氏(ゆげし)の出身という僧、道鏡でした。『続日本紀』は、上皇がこの道鏡を深く信任するようになった、と伝えています。やがて道鏡は、異例の早さで昇進していきます。

ここで、慎重におさえておきたいことがあります。二人の関係は、後世、面白おかしく、さまざまに語られてきました。けれど、男女の関係を示す史料は、確認できません。確かなのは、「上皇が、一人の僧を、強く信任した」という事実だけです。


藤原仲麻呂の乱

道鏡の台頭は、当時の実力者と、真っ向からぶつかります。

淳仁天皇を支えていたのが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ/恵美押勝〔えみのおしかつ〕)でした。道鏡を信任する孝謙上皇と、淳仁天皇・仲麻呂の側とのあいだで、対立が深まっていきます。

そして764年、ついに藤原仲麻呂の乱が起こります。孝謙上皇の側が勝利し、仲麻呂は敗れて命を落としました。

敗れた側についていた淳仁天皇は、廃位され、淡路(あわじ)へ移されます。


称徳天皇として、再び

淳仁天皇を退けたのち、764年、孝謙上皇は、ふたたび天皇の位につきました。これが、称徳天皇(しょうとくてんのう)です。第48代にあたります。

つまり、孝謙天皇と称徳天皇は、同じ一人の方なのです。

一度退いた天皇が、もう一度即位することを、重祚(ちょうそ)といいます。前に見た皇極(斉明)天皇に続く、二例目です。そして、日本の歴史で重祚はこの二例だけ。そのどちらもが、女性天皇でした。


宇佐八幡宮神託事件

称徳天皇の時代、769年に、あの有名な事件が起こります。宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)です。

ことの起こりは、一つの報告でした。九州・宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)の神のお告げとして、「道鏡を皇位に即ければ、天下は太平になる」というのです。

これを受けて、称徳天皇は、和気清麻呂(わけのきよまろ)を、宇佐へ確かめに行かせます。

そして清麻呂が持ち帰ったお告げは、まったく逆のものでした。

天つ日嗣(あまつひつぎ)は、必ず皇緒(こうしょ)を立てよ。無道(むどう)の人は、よろしく早く掃(はら)い除くべし。

――皇位は、必ず皇統に属する方が継ぐべきだ、というのです。こうして、道鏡が皇位につくことは、ありませんでした。

なお、報告と異なるお告げを伝えた和気清麻呂は、このあと、遠い地へ左遷されています。


道鏡は、本当に皇位を狙ったのか

ここは、もっとも慎重に書かなければならないところです。

「道鏡が、皇位を狙った悪人だった」というのが、長く語られてきたイメージです。けれど、現在の歴史学では、見方が分かれています。

  • 道鏡が、自ら皇位を望んだ、という見方。
  • 称徳天皇のほうが、道鏡への譲位を望んでいた、という見方。
  • そもそも後世、道鏡が悪人として描かれすぎた、という見方。

注意したいのは、出来事を伝える『続日本紀』が、道鏡が失脚したあとに編まれたものだ、という点です。書く側の立場が、記述に影を落としている可能性は、否定できません。

ですから本記事では、「道鏡は皇位を狙った悪人だった」とは、断定しません。確かなのは、「皇位の継承をめぐって、大きな動揺が起こった」という事実です。


称徳天皇の崩御と、道鏡の失脚

770年、称徳天皇が崩御します。

すると、後ろ盾を失った道鏡は、たちまち力を失いました。下野(しもつけ/今の栃木県)へ左遷され、政治の表舞台から去ります。

そして、称徳天皇のあとを継いだのは、天武天皇の系統ではなく、天智天皇の系統にあたる光仁天皇(こうにんてんのう)でした。皇統の流れそのものが、ここで大きく移り変わったのです。

道鏡をめぐる出来事の流れ


この事件が、残したもの

ここで、この記事の、最大のポイントです。

称徳天皇を最後に、女性天皇は、およそ850年ものあいだ、現れませんでした。次に女性天皇が立つのは、はるか江戸時代の初め、明正天皇(めいしょうてんのう)まで待つことになります。

そして、歴代の女性天皇八方のうち、後半の四方――元正・孝謙(称徳)・明正・後桜町は、全員が生涯独身でした。称徳天皇も、生涯、独身を通しています。

女性天皇の結婚と、その境目


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

筆者は、道鏡を「悪人」と決めつけたいわけではありません。神託事件の真相も、今となっては、はっきりとは分かりません。

けれど、この出来事が、皇位の継承に与えた衝撃は、とても大きかったように思います。皇統に属さない人物が、皇位に近づくかに見えた――その記憶は、長く尾を引いたはずです。

そして、もう一つ。元正天皇は、「自ら新しい皇統を作らない女性天皇」でした。そのあり方は、称徳天皇の時代に、大きく揺れます。そして、その経験を経て、「女性天皇は、自ら新しい皇統を作らない」という考え方が、より強く意識されるようになったのかもしれません。

事実、称徳天皇のあと、皇統は、天武天皇の系統から、天智天皇の系統へと移っていきました。大きく揺れた均衡が、静かに揺り戻していくかのようでした。その経験は、その後の女性天皇のあり方にも、影を落としたように思います。

今の「女性天皇」の議論で、過去の女性天皇が「前例」として語られることがあります。けれど、称徳天皇お一人をとっても、その背景は、現代の議論とはまるで違う。そのことは、静かに心にとめておきたいと思います。


まとめ

  • 孝謙天皇(阿倍内親王)は、聖武天皇と光明皇后の娘。第46代で、女性で唯一、皇太子に立てられた。
  • 749年に即位し、758年に淳仁天皇(天武天皇の孫)へ譲位して上皇となった。
  • 病を看病した僧・道鏡を深く信任したが、二人の男女関係を示す史料は確認できない。
  • 764年の藤原仲麻呂の乱で上皇側が勝利し、淳仁天皇は廃位。孝謙上皇が重祚して称徳天皇となった(重祚は皇極〔斉明〕に次ぐ二例目、いずれも女性天皇)。
  • 769年の宇佐八幡宮神託事件で、和気清麻呂が「皇位は皇統の方を」と伝え、道鏡は即位しなかった。
  • 道鏡が自ら皇位を狙ったかは諸説あり、断定できない(『続日本紀』は道鏡失脚後の編纂)。
  • 770年の称徳天皇崩御で道鏡は失脚し、皇統は天智系の光仁天皇へ移った。
  • 称徳天皇を最後に、女性天皇は約850年現れず、後半の女性天皇四方は全員が生涯独身だった。
  • 称徳天皇の時代は、「女性天皇とは何か」を考えるうえで、大きな転換点となった。

道鏡を「悪人」と決めつけることも、神託事件の真相を言い当てることも、今となってはできません。

けれど、皇統に属さない人物が皇位に近づくかに見えた――その記憶は、長く尾を引いたはずです。称徳天皇を最後に、女性天皇はおよそ850年、現れませんでした。

大きく揺れた皇位の均衡は、やがて静かに揺り戻していきます。その経験は、その後の女性天皇のあり方にも、影を落としたように思うのです。